今年度研究回顧

今年度は多忙だった。
会議という世俗上の義務も増え、講義のコマ数も増えた。
青息吐息で論文4本をなんとかこなした。

「アビダルマの二諦説-序章」ではこれからの研究方針を示してみた。その途上で、気にかかったことを残り3本の論文にした。
(1)「チムロプサンタクパ『倶舎論』注の謎」
(2)「アポーハ異聞」
(3)「dravyasat・prajnaptisat覚え書き」

以上が陣立てである。
(1)と(2)は、比較的短いもので、(1)では、無為と極微についての疑問点を綴ってみた。(2)では、従来のアポーハ説を別の切り口で眺めてみた。(3)はかなり長いもので、二諦説と仮実の絡みを論じた。自分としては相当踏み込んだ訳を試みた。これまで異端の代表格とされてきた犢子部も再評価されるべきであることも論じてみた。

とにかく研究が進むにつれ、『倶舎論』『集量論』『量評釈』は、
ひと括りで考察しなければ論点が掴めないというのが、確信めいたものとなった。
暫くはこのテーマで遊べそうである。


アビダルマの二諦説-序章
http://wwwelib.komazawa-u.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_detail.cgi?U_CHARSET=utf-8&CGILANG=japanese&ID=XC01120120&SUNO=&HTMLFILE=sr_sform.html&SRC_BODY=1
[PR]
# by indian-buddhism | 2011-12-14 17:42 | 研究・論文

「アビダルマの二諦説ー序章」

着眼から3年掛かったが、新しいテーマを伝える論文が完成した。
論題は「アビダルマの二諦説ー序章」。

『倶舎論』から、量評釈に至るまでの二諦説の流れを扱うが、あと数年掛かるので、最終予定を想定したロードマップに当たる論文となる。経量部の実態を明らかにする事にも繋がればと思う。
[PR]
# by indian-buddhism | 2011-07-05 13:31 | 研究・論文

いわゆるmoderate realism について

筆者は、生来珍奇を好み、空想の世界に遊ぶのが常であった。それ故、現実観に乏しく、すべてにおいて確実性がない。本稿も、文献という現実から遊離した空想の産物かもしれない。以下は、見知った文献をネタに、勝手なストーリーを展開した駄文である(紀要69号より)

「いわゆるmoderate realism について」↓
http://wwwelib.komazawa-u.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/U_CHARSET.utf-8/XC01010035/Body/jbk069-09a.html
[PR]
# by indian-buddhism | 2011-05-28 13:31 | 研究・論文

チベット仏教「論理学・認識論の研究Ⅱ」

本日、ツルティム・ケサン(白館戒雲)氏から、タルマリンチェンの訳注研究が届いた。量評釈知覚章に対する注釈文献である。

なかにはツォンカパの講義録の翻訳もされており、
アビダルマ二諦説の研究に直結するため、私にとっては大変有益な書物である。
[PR]
# by indian-buddhism | 2011-05-12 18:58 | 研究・論文

ウメ

日本語にも、草書体があるが、チベット語にもある。ウメ体という。
dbu med(ウメ)とローマ字表記する。「中抜け」という意味だろう。
 
先頃、中国から『カダム全集』という今まで、幻だった大テキスト群が出版された。
チベット仏教初期の大物の書物は、これまで後代の引用でかろうじて知られるだけだった。
それらが一気に、みつかったのである。20世紀初頭に、敦煌文献が発見されたのと同じくらい画期的な発見である。

私も喜んで、購入した。しかし、それは、ウメという草書体の文献が大半だった。
私は、これまで、ウメを読んだことがないが、
何とかウメをものにしたいと思いながらも、1年が経過してしまった。

つい先だって、先輩の先生に相談して、ウメの教本を送って頂いたのだが、
予想通リなかなか難物である。
日本語でも草書体は苦手なので、うまくいくか心配だが、
宝の持ち腐れにならぬよう、読み 解いていきたいと思う。
[PR]
# by indian-buddhism | 2011-01-27 10:20 | チベット仏教

アドバイス【鵜呑みにするな】

今年の3月で、卒論以来、30年以上に渡りお世話になった先生が退職することになった。
西も東もわからない時分から、公私に渡りご面倒をおかけした。

斯学をリードする研究を精力的に行い、後輩の学者からは、「戦後最大の知性」などという賛辞を浴びていた。国内外で高い評価を受けている先生であったが、いささかの慢心も裏表もない方で、上下関係のしがらみとは距離を置く、大の権威嫌いであった。
当時の私が得意なのはむしろアルコールで、専門学に努めるような優秀な学生では決してなかったので、先生の世間の評価も当初は知らなかった。が、そんな不出来な学生である私の妄想めいた思い付きにも、先生は耳を傾け、熱心にアドヴァイスもしてくださった。

日頃から先生は「どんな偉い人の言葉も信じるな」とおっしゃっていた。
「その道の権威の言葉でも、検証もせずに鵜呑みにするのはやめろ」という意味であるが、つい最近も、その言葉を実感する研究に出くわした。

K博士は、『倶舎論』「賢聖品」4偈に説かれる二諦説は、『雑阿毘曇心論』のコピーで、説一切有部の二諦説に他ならないと、論じた。これは、同偈を経量部のものとする世界的学者フラウヴァルナーに異議を呈した画期的成果である、と思われた。それを受けて、日本の著名なM博士も全面的に賛成した。しかし、『倶舎論』と『雑阿毘曇心論』を仔細に比較すると、似ているのは偈だけで、その注釈部分の趣旨は全く異なっていた。

さらに、『倶舎論』批判を展開することで知られる『順正理論』を調べると、奇妙なことに同論は、『倶舎論』の二諦説を『雑阿毘曇心論』的な見地から非難しているようなのである。『雑阿毘曇心論』的見地とは、「一切は苦」とみるような仏教的見方のことだ。やや専門的な術語を使えば、二諦を四諦と絡ませて議論する、という観点である。これは、説一切有部の百科全書『大毘婆沙論』以来の伝統らしい。『順正理論』も『雑阿毘曇心論』も四諦重視の説一切有部なのである。伝統的解釈に『倶舎論』の二諦説はそぐわないというわけだ。これでは、その二諦説を説一切有部のものとするわけにはいかない。事は、二諦説という1種の「存在論」、「ものの見方」に関することなので、大いに展開していきそうである。

私の頭の中には、ぼんやりとした青写真があるが、まだ形を成してはいない。
しかし、よいテーマになりそうだという予感はある。

「鵜呑みにするな」という師のアドヴァイスから得た成果である。
[PR]
# by indian-buddhism | 2011-01-15 14:47 | 印哲屋のひとりごと

「定義家」【H.A.Jaschike:A Tibetan English Dictionary】

チベットのゲルク派という宗派では、綿密な教理を扱う顕教の学僧を「定義家」(mthan nyid pa,ツェン二ーパ)と称する。この事実は、よく知られている。しかし、なぜ「定義家」なのだろうか?その「定義家」について、面白い記述を見つけた。
チベット語辞典として定評のあるイエシケの辞典には、こうある。
ーー 
「〔定義家とは〕現在の哲学的学派の名前、毘婆沙師〔=説一切有部〕と同じものといわれる。ゲルク派に大いに愛好されている。彼らの学問の主要な対象は教義のオリジナルな精神や正確な意味を確定することである。彼らはそれらをテーマとする論議を好む。チベット僧の思弁的学問を代表するものかもしれない。」
(H.A.Jaschike:A Tibetan English Dictionary,p.454)
ーー

「定義家」の体質は、説一切有部譲りのものだということが伺えて、私には興味深かった。大分以前「定義家」のサンスクリット語に相当するラークシャニカ(laksanika)について、それが、説一切有部の体質を明示する、という小論を試みた事があるが、あながち、検討はずれでもなかったような気がする。
[PR]
# by indian-buddhism | 2011-01-15 14:43 | チベット仏教

本年度の展望 【演習】

4月から演習という科目を持つ。簡単にいうとゼミである。教員は希望者があれば、ゼミを担当する。本年度は恐いもの見たさか、奇特にも学生が2人、私の演習を希望してくれた。
私の場合、病気の後遺症で会話面でもハンディキャップがあるので、初対面の学生さんは、私とのやりとりに最初は戸惑うようである。お互い、慣れてしまえばどうということはないのだが、ゼミのような討論を中心とする授業では、会話にスピード感が求められるので、どうなるか若干心配もある。が、何より大事なのは、授業の質である。がっかりさせたくないので、目下、準備中である。

演習では、仏教論理学という分野を軸にして進める予定なので、ここ数年出版された概説書を見てみた。その分野で結構な大御所2人の書物を読む。
A氏は、インドの論理学は帰納法であるといい、B氏は演繹法であるという。また、A氏は、概念の実在を否定する「アポーハ」論は素晴らしいといい、仏教論理学を高く評価する。反してB氏は「アポーハ」論は詭弁だといい、仏教論理学者を笑う。かくも意見の違いがある。学生がどのような反応を示すのか今から楽しみにしている。
[PR]
# by indian-buddhism | 2011-01-08 01:17 | 講義・振り返り

【定義】

e0130961_13522898.jpg
去年は、『インド論理学研究』なる雑誌が誕生し、私も論文を掲載した。枚数制限もなしということで、皆さん、のびのびと筆を取っている印象があるが、私は、病気から復職して1年目で、論文のネタもあまりなかったので結構苦しんだ。確か、9月10月と2ヶ月ほどかけて完成させた。

「定義」は論理学のテーマだが、やや異なる分野から「定義」について波紋を呼んだ論書で、以前から注目していた『大乗荘厳経論』というインドの唯識論書を取り上げることにした。

普通、「定義」は「定義されるもの」と2項あれば、十分であろう。しかるに、『大乗荘厳経論』では、もう1つ必要というのである。「定義の媒介」みたいなものを想定しているらしい。インド仏教では、それほど問題にならなかったが、チベットでは、1大テーマとなったのである。

チベット人の仏教文献には、この3項の「定義」が頻繁に登場し、当たり前のように使われている。しかし、その実態は、未だ不明である。そこで、『大乗荘厳経論』対するチベット人の注釈を見ることにした。3学僧の注釈を訳してみたが、問題解明につながる文言はなかった。仕方がないので、和訳して、いくつかの問題点を指摘した。ただそれだけのチープな論文である。しかし、唯識のものをまともに読んだのは、今回が始めてであり、また、論文をコピーしてもらったり、色々教えて頂くなどして、ようやく出来上がったので、印象に残る論文となった。
[PR]
# by indian-buddhism | 2011-01-08 00:21 | 研究・論文

『倶舎論』と『量評釈』の関係

仏教論理学のビックネーム、ダルマキールティと、「三世実有論」との絡みは深い。というより、彼は、『倶舎論』の嫡子かもしれない。いまだに問題の多い彼の主著『量評釈』第3章「知覚」章第3偈の二諦の規定も、『倶舎論』の二諦と通底しているようである。

『倶舎論』では、「壺」などの分析可の存在は、世俗有(暫定的存在)とされる。それに対し、『量評釈』では、同じ「壺」が勝義有(究極的存在)なのだ。実は、これは、チベットのゲルク派の解釈である。なるほど、これで種々異論のあるarthakriya(アルタクリヤー)もわかりやすい、と納得できる。「壺」が、水を入れるなどの、自己のartha(目的)をkriya(達成)すれば、勝義有と認めよう、というわけである。ダルマキールティは、分析一辺倒の『倶舎論』に意義申し立てをしたということらしい。

ゲルク派のダルマキールティ解釈は、以前、ドレイフェスという学者が、moderate realism(穏健な実在論)と銘打ち、異端的な解釈として紹介したが、私は、異端どころか、至極、インド思想史を踏まえた正統な理解だと思っている。

今まで『倶舎論』と『量評釈』は単独で論じられてきたが、両者を照らし合わせ、思想的な流れを考察する事により両著作の意味がはっきりしてくるのではないか。二諦は、言い換えると、「部分と全体」の問題にスライド出来て、この視点は、絡み合った問題を単純化する鍵となりそうである。

これも、「三世実有論」の講義から、零れ落ちた余禄である。
[PR]
# by indian-buddhism | 2011-01-07 21:53 | 講義・振り返り

『倶舎論』の重要性

『倶舎論』を中心にした「三世実有」論の講義で、シチェルバツキーの言葉に遭遇して以来、種々の妄想が沸いた。例えば、インド哲学の中のある学派は実在論、ある学派は観念論、という分類も、これでいいのか、という疑念が起こったのである。

インドは、古来から瞑想が発達し、それと平行して論理的思考も盛んだった。いわば、ヴァーチャル大国である。そんな国では、リアルとヴァーチャルの世界は、縦横無尽に行き来出来たはずだ。観念の遊戯が現実と融合するような、SFめいた世界があるように思う。だから、インドの実在論といっても、何かしらヴァーチャルな要素を顧慮しなければならないし、インドの観念論もリアルとの接点は確かにあったと考えるべきだと思うようになった。まぁ、これは妄想の段階でしかない。

若い時分の私は『倶舎論』は古くさいカビの生えたような学問だと思っていた。しかし今や『倶舎論』は、私のバイブルである。なぜなら仏教の理解は『倶舎論』の理解に比例するからである。
[PR]
# by indian-buddhism | 2011-01-07 21:06 | 講義・振り返り

特講【シチェルバッキー】

「三世実有」論の講義は、色んな意味で、刺激的であった。20世紀前半に活躍した、ロシアの世界的学者シチェルバツキーの素晴らしく示唆的な言葉にも改めて感銘を受けた。

彼は「説一切有部とその反対者との争いは、我々の実在論と観念論という概念にはほとんど無関係な問題について、全く異なる面で行われたのではないか。」と述べている。つまり、「三世実有」論に対する現代のアプローチそのものが問題視されているのだ。切り口の違いということであろう。視点は大事である。
ダルマキールティのsvabhava(スヴァバーヴァ、自性)にしたところで、「存在論的文脈」「概念論的文脈」で、訳し分けることが提案されているが、この「~論的文脈」という切り口が、返って、問題を複雑化しているのではないだろうか。ダルマキールティに「~論的文脈」という視点はあったのだろうか?そんなものは近代のでっち上げであろう。私は、ダルマキールティのsvabhavaも「部分と全体」の問題に還元出来る、と見ている。そして、svabhavaは「素材」と理解すれば、見通しが立つ、と予想している。
[PR]
# by indian-buddhism | 2011-01-07 21:05 | 講義・振り返り

特講【三世実有論】

作成している2,30枚程の原稿を、学生にも理解しやすいように手直ししたが、更に砕いて手直しする必要があり、作業はかなり厳しかった。しかしお陰で、今まで全く知らなかった体滅・用滅論争だとか、『倶舎論名所雑記』などという著作にも出会った。

体とは「本体」のことで、用とは「作用」のこと、どちらが滅すると見るのかで、「三世実有」の解釈が異なる、という論争である。体滅のいう通り、本体が滅するとすれば、「諸行無常」という仏教の鉄則に適う。しかし、そう単純ではないらしい。本体は不滅、という立場を取る。これを「法体恆有」(ほったいごうう)という。本体は不滅で、その作用が滅する、というのが用滅である。
体・用は、一面的な存在論で処理しようとするので、私は「まずい議論」だと思う。体は、恐らく、元素記号のような概念だろう。つまり、100年前の水も、今目の前にある水も、そして100年後の水も皆H²Oである。これが体ではないのか?「三世実有」論の従来の理解は、平板すぎるように感じた。

その論争に終止符を打ったのが、知る人ぞ知る佐伯旭雅作『倶舎論名所雑記』らしい。「らしい」といったのは、私自身、まだ、実際に見る機会を得ていないので、その辺を確認していないからである。とにかく、伝統的な倶舎学に遭遇したわけだ。漢文が苦手な私だが、仕方なく、そちらも見たのである。その中で遭遇したのは、明治に日本に留学して、倶舎学を学んだローゼンベルグというロシアの学者。彼は、30歳位で早世したが、『仏教哲学の諸問題』という普及の名著を残した。『古寺巡礼』などで有名な哲学者和辻哲郎は「この年少にして気を負える著者」とローゼンベルグを非難する。要するに、小僧呼ばわりしたのである。和辻は、大乗仏教の理解が足りないと彼を非難するのであるが、私には、この2人は同類項に見える。というのは、両者とも、最後には「超越的存在」を持ち出すからである。「超越的存在」とは神学であり、哲学ではない。これを出されると、議論の余地はないのである。

「三世実有」論に関しては、従来の倶舎学も、比較的近代のサンスクリット語に基づく研究にも、不満を感じた。特に、インド思想のサーンキャ学派とかヨーガ学派は、随分、「三世実有」論に関係が深いのに、その辺のところは、実は、まだはっきりしていない気がするのである。
[PR]
# by indian-buddhism | 2011-01-07 20:41 | 講義・振り返り

昨年度振り返り【三世実有論】

昨年度は授業の下準備、日々の研究に追われながら論文を2つ書き、ブログを省みる余裕もなかった1年であった。備忘録として振り返ってみたいと思う。


授業では、「三世実有論」という一見奇妙な時間論を扱った。
過去・未来のものも、現在のものと同じように存在する、という独特な理論である。一見常識的ではないこの時間論は、従来大乗仏教において批判され続けてきており、はなはだ旗色が悪い。しかし、「三世実有論」を唱えた学派である説一切有部も、通常の時間論ではない事くらい、わきまえていたに違いない。にもかかわらず、なぜそのような、時間論にこだわったのか?

よく考えてみると、私達にも、過去の鮮やかな思い出や、未来への大きな希望は、現在のもののように、ありありと見える。そんな経験は誰にもあるはずだ。とすれば、「三世実有論」は、奇妙な時間論とばかりは言えないのではないか。多分、「三世実有論」は、常識的な時間論ではなく、現実を仏教的に見るという意味で、特殊な宗教的時間論なのだ。
「三世実有論」は、存在論の面で矛盾する時間論と言われ続けてきたが、そんな単純なものではないはずである。


とまぁ、授業では上記の「三世実有論」をテーマとして、基になるテキストを読みながら、討論形式の授業を予定していたのだが、誰もテキスト講読に必要な語学をやっていないことが判明したので、従来の研究を見直し、それを私が説明するという方針に転換した。
1回の講義で、400時詰め原稿用紙20-30枚作成。私は病気の後遺症で、会話にハンディキャップがあるので、学生に順番に音読してもらいながら、授業を進めた。
[PR]
# by indian-buddhism | 2011-01-07 19:10 | 講義・振り返り

クロスオーバー

一昔前、クロスオーバーという呼称があった。もっぱら音楽に使われていたように思う。クラシックやジャズ、ロックなど、ジャンルを超えて作り上げる音楽の事だと記憶している。ハービー・ハンコックなどが活躍していたが、彼は後に、ケルンコンサートで、まるでクラシックのような素晴らしいピアノ演奏を見せてくれたが、クロスオーバー時代とは随分変身したものだという印象を受けた。

私達にも、それぞれ専門分野がある。無論、それを極めるのは大事だ。しかし専門分野だけに埋没しているのは、意外に大過なく楽なのである。むしろそこを飛び出して、他分野に挑戦する勇気が欲しい。
北川秀則博士はディグナーガ研究の大権威だが、唯識の分野にも一石を投じた。博士はparikalpita-svabhavaの(遍計所執ー性)等の用語を丹念に調査し、それが同格複合語であることを明らかにされた。博士は異分野に置いても見事な成果を上げたのである。

自分の行きやすいところに生きるだけでなく、自分の苦手な領域に挑戦する勇気や実力が必要だと思う。これもクロスオーバーの精神に通ずるのかもしれない。
[PR]
# by indian-buddhism | 2009-07-14 08:02 | 印哲屋のひとりごと

理論と実践

スタール(J.F.Staal)氏によれば、、相と所相はそもそも、文法学で使われだしたそうだ。
相は文法の規則、所相は実生活での言葉の使用を意味するようである。更に、音楽の分野でも相と所相が使われているようだ。その際は、相は音楽理論、所相は演奏のことを言う。何ともややこしい。しかし、性相学にも適用できると思う。つまり相は分析的理論、性=所相は心理とみればよいのではないか?
[PR]
# by indian-buddhism | 2009-07-11 19:49 | 印哲屋のひとりごと

性相

玄奘三蔵は唯識を説いて法相宗という宗派をもたらした。その学問を性相学とも呼んでいる。性(svabhava)も相(laksana)も、迷いや悟りの世界を表す際に用いられる。玄奘は、「相」を分析した上で「性」に至ると見ているようで、したがって、性は相とイコールとはしていないはずだ。それを知っていながら現代の唯識学者の大半が性と相は、ほぼイコールという認識である。svabhavaとlaksanaは言語が異なっており、単純に考えても意味が違うとみて不思議ではない。

この疑問については、以前少し調べて一応の成果は出たが、未だ結論に至ってはいなかった。今夏、更に研磨したい題目のひとつである。
[PR]
# by indian-buddhism | 2009-07-08 21:17 | 印哲屋のひとりごと

唯物と唯識

昔の話になるが、洋書屋で手伝いをさせていただいたことがある。
インドの本も多種扱っており、目を通す機会も多かったが、本のこしらえが非常に大雑把であった。統計を出すような数値資料などには、非常に精密な意識が及ぶ一方で、製本においては、例えばvol.1とvol.2はB4版であるのに、vol.3はA4といった具合で、その粗雑さに唖然としたことがある。

インドが国際的な出版組合に未加入で制約がないという事もあろうが、内容(思考)重視であり、本の見てくれなど大した問題ではないのであろう。彼らにとっては、現実より思考的なバーチャル世界が最優先なのだと改めて思い知らされる。唯識の世界、一種の独我論にも通ずる傾向である。
[PR]
# by indian-buddhism | 2009-07-03 08:52 | 印哲屋のひとりごと

嫌われ者  

中観派の開祖であるナーガールジュナは若い頃、姿を消して王宮に忍び込み捕らえられたという。なかなかやんちゃな若者だったのである。その彼は後に『中論』を執筆し、激しい批判精神を示した。しかしその鋭い批判精神は反発を買い、虚無論者と呼ばれるようになっていくのである。

概して中観派の学僧はシニカルで、他人に好感を持たれない場合が多い。忌まれて殺害されるケースもあった。現代の中観研究者の中にも批判精神を見せてくれる方がいるが、研究者としてはむしろ、弱点を遠回しに意地悪く、鋭く非難するような、嫌われ者的要素は大事であると思われる。
[PR]
# by indian-buddhism | 2009-07-01 21:43 | 印哲屋のひとりごと

二諦の重さ

四聖諦とは、苦、集、滅、道 の四つの心理である。一方二諦は、世俗と勝義という二つの心理だ。倶舎論では四聖諦のあとに二諦を論じる。それで、二諦を付論(prasanga プラサンガ)と訳すことが多い。しかし二諦は付論として論じられるような軽いものではないはずだ。むしろ、必然的論議を訳すべきである。
[PR]
# by indian-buddhism | 2009-07-01 09:38 | チベット仏教